カタラン20世紀建築とは・・・
ガウディの影響を受けた弟子たち、マルティネイ、ジュジョール、ルビオ。彼らはそれぞれの手法でカタランボールトを発展させ、1920年代に自分の建築作品を作り上げている。1929年のバルセロナ万博において、幻の近代建築と呼ばれたミースのドイツパビリオン(仮設建築物だった為、万博終了後解体されたが、1985年に再建築され
、現在はミース財団として建築文化のシンボル的存在となっている)
30年代は、コルビュジェがバルセロナ出身の弟子セルトと共に市役所を訪れ、都市計画を行っている。セルトはミロの友人でもあり、50年代にマヨルカ島の
ミロのアトリエを、カタランボールトを使ってデザインし、当時、機能主義建築を超えたものとして土着的建築ブームを巻き起こした。
60年代には、ボフィールがレンガ積みと色タイルで建築デザインをし、バリオ・ガウディで注目を集め、70年代においてウォールデン7、アブラクサスの集合住宅でポストモダンブームのパイオニアとなった。
92年のオリンピック施設をデザインする為に、当時バルセロナ市役所の助役であった、ボーイガスが国際的著名建築家による設計コンペをオルガナイズし、磯崎、グレゴッティ、ボフィールらがデザインを担当することになった。磯崎のサン
・ジョルディ・オリンピック屋内競技場はデザインもさることながら、多目的機能を備えた建築装置として日本建築技術の高さを印象付けた。
オリンピックに合わせ、都市再開発も同時に行われ、マイヤーのMACBA(バルセロナ現代美術館)の文化施設、当時若手建築家だったミラーリェスのオリンピック村の日除けのオブジェが話題となった。その後、ミラーリェスは日本でも作品を作るなどブームを起こしたが、イグアラダの墓地の作品を最後に、47歳の若さで亡く
なった。
そして今、2004年のバルセロナ・フォーラムのメイン会場はヘルゾックが、注目度の高かったヌーベルのAGBARが完成し、カタルーニャの首都バルセロナは、世界の建築文化首都となっている。カタラン20世紀建築なくして、現代建築は語れないであろう。
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